2018年10月31日水曜日

妄想劇場・一考編


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過去に起きていることから浮かび上がってくる
真実もある。・・・


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今年の夏も甲子園が終わり、高校球児にとっては、
たったの3回しかない高校野球の夏が過ぎ去って
いきました。
勝ち続けて優勝を手にするのは本当に1校、
惜しくも勝ち続けることができなかった球児が大勢います。
地区予選で負けて泣いた球児もいれば、甲子園に
出場して決勝で涙を飲んだ球児もいたことでしょう。

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今から4年前。野球部員の息子は高校3年生でした。
高校球児の最も重要な3年の夏の県予選を前にした、
5月の練習試合でのことです。

その日はバッティングも守備も調子が良く、監督からも
『この調子ならレギュラーでいける。』
と言われ、なかなかレギュラーになれなかった息子は
やっと努力が報われたと思っていました。

しかしその試合の途中、1塁から3塁への走塁の際に
スライディングした後から、太ももに痛みが出始め、
だんだん激痛にかわっていったのです。

日曜日のため、一旦自宅に帰り、アイシングしましたが
痛みは良くなりませんでした。
翌日病院に行くと、案の定、太ももの筋肉が肉離れを
起こしていました。

お医者様の説明では全治3週間
経過によってはそれ以上かかるかもしれないとのことでした。
主人と一緒に怪我の説明を聞いていた息子の顔が
『全治3週間』と聞いた途端、みるみるこわばり、
落ち込んでいきました。無理もありません。

夏の甲子園、県予選のレギュラー発表前という
高校球児にとって1番大事な時期に怪我をして
しまったのです。
『怪我が治るの、県予選に間に合わないかもしれない。』
もう絶望的な思いだったでしょう。

保険適応ではないのですが、自費治療で高圧酸素
治療をすれば早い回復が期待できるため
受けることにしました。

毎日の学校や病院への送り迎えは夜勤明けの
主人と協力しました。
チームメイトが練習している間はリハビリや上半身の
トレーニングのため毎日病院に通いました。
練習できない息子はどんなに焦り、辛かった
だろうと思います。

そして3週間後のMRI検査の結果、お医者様から
やっと練習開始の許可が出ました、しかし
1週間もしないうちに・・・

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「父さん・・母さん・・・。
今まで自分が野球するのを応援してくれたのに・・・。
レギュラーになれなくって、本当にごめんなさい・・・。
自分が野球をするのに、いろいろと支えてくれて
本当に感謝してる。

毎日お弁当作ってくれたり、父さんは怪我した時に
『治るための治療はしっかりお願いします』って
高圧酸素の治療をすぐに受けられるようにしてくれて、
本当いっぱいいっぱい応援してくれてたのに、
レギュラーなれなかった・・・。

本当にごめんなさい。
今日自分から監督にレギュラー候補を断ったんだ。
怪我のブランクで自分でダメだとわかったから。
ベンチにも入れないけど、怪我をした自分よりも
動けるメンバーがベンチに入るべきだと思うし、
自分はチームが頑張るために他にできること
考えていこうと思うんだ。

応援してくれてたのに、・・本当にごめんなさい」

涙をこぼしながら話す息子を前に主人も私も
思わず涙をこぼしていました。
一番辛い事を、きちんと自分で答えを出し、
監督に伝えてたのです。

そして、主人が
「ごめんなさいって、いうのは違うと思うよ。
自分が今まで本当に努力して頑張ったのに
報われなかった。

こんな時は自分が一番辛くて悲しい気持ちだと思う。
やけになってしまう人もたくさんいる。
でも、お前はちゃんと親に話してくれた。

レギュラー取るのも大事だけど、それが
できなかった時に、チームを支えたい気持ち、
今まで支えてくれた人への感謝を伝えられる。
これは本当に素晴らしいことだとだよ。

すごいことができるようになった。
きっといいチームメンバーのおかげなんだろう。
これからの人生のなかで、絶対に今の思いは
自分の支えになるよ。

こちらこそ、ありがとう。これからは自分が言ったように、
チームの中でお前がみんなを支える方法しっかり
考えていきなさい。
それがチームや監督、みんなの力になるよ。」

息子の野球人生、怪我のために本当に残念な結果に
終わってしまったと思っていました。
でも、主人のいう通りこんなしっかりと感謝の気持ちを
伝えてくれるなんて、本当に我が子ながらとても
感動しました。

努力が報われなかった時に本当に辛かった
だろうと思います。
でも怪我をした息子にきっとチームメイトがいろいろと
声をかけてくれ、支えてくれていたのでしょう。

私も息子にどういう言葉をかけてあげれば
良いのかわからず、ひたすら見守るしかありませんでした。
でも、息子はちゃんと自分で答えを見つけていたのです。
こんなにも素晴らしい事を学んでいてくれていたのです。

その後、夏の県予選大会では後輩達の先頭にたって、
道具運びや試合中の声援でひときわ目立つ
息子の姿がありました。

結果は残念ながら県予選の試合は負けてしまいました。
引退後それぞれの進路に進んでも、も野球部の
仲間とは連絡を取り合い交流が続いています。

結果よりも過程が大切な事もある、と親子で
学んだ夏でした。・・・ 



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エリはお婆ちゃん子だった。
幼い頃から、何かあると一番に、お婆ちゃんに
報告する。
「お婆ちゃん、今日ね、テストで90点取ったよ」
と言えば、「えらいねえ」と褒めてくれた。 

エリの両親は二人とも学校の先生をしていた。
8時よりも前に帰ってきたことがない。 
だから、お婆ちゃんといつも一緒にいた。

特に、夏休みは家にいると一日中、二人きりだった。 
特に今週は、両親とも泊りがけの学校行事で
家を留守にしている。

「行って来ま~す」 
「どこ行くの?」 
「うん、今日も部活」 
「ちゃんと、鏡を見ていきなさいよ」 「
いいよ、どうせ練習したら汗まみれで、
頭もクチャクチャになるんだから」

エリは、中学でバスケットボール部に入っていた。 
夏休みの前半は、朝練がある。
「だめよ、どこでいい男に会うかもしれないんだから」 
「いやだぁ、そんなのいいよ」
と言いながらも、エリはお婆ちゃんの部屋にある
姿見の前に立つ。 

胸のリボンを結び直す。制服のスカート
をポンッポンッと軽くはたいた。
「じゃあ、行って来ま~す」
「はい、行ってらっしゃい」

いつもと変わらぬ朝だった。 
部活の帰り道、リョーコに誘われて、駅の近くの
ファンシーショップに寄った。 

リョーコはキティちゃんにハマっていて、ケータイの
ストラップから文房具、 パジャマまでキティちゃんだ。 
二人で当てもなく店内をぐるぐると回る。

「え!?」
エリはリョーコの顔を見た。こっちを向いて、
舌をペロッと出した。 

リョーコは、手に持っていたキティちゃんの
小さなポーチを スポーツバッグの中に
入れたのだった。

(え? 万引き?)
エリは、呆然として立ち尽くしていた。
そのすぐ目の前で、 リョーコはキティちゃんの
ハンカチを 再びバッグに投げ入れた。
そして、エリの耳元でささやいた。

「大丈夫だよ、ここはカメラもないんだから」
監視カメラのことを言っているらしい。リョーコは、
「エリにもあげるよ」
と言った次の瞬間、棚のハンカチを掴んだかと思うと、 
エリのカバンにねじ込んだ。

エリは血の気が引くのがわかった。 
身体が強張って動かない。
気が付くと、リョーコは店の外へ何食わぬ顔をして
向かって行った。

「リョーコ」と言葉にならない声を発して追いかける。 
気づくと、駅前のハンバーガショップの
前まで来ていた。 

リョーコが言う。
「大丈夫だって~」 「・・・」
エリはまだ声が出ない。

「あの店はさあ、女の人が一人レジにいるだけでさあ、
奥の方は見えないのよ」 
「だって・・・だって、これって万引きじゃないの」 
「エリだって、持って来ちゃったんじゃないの?」

手にしたカバンから、ピンクのタオル地の
小さなハンカチが顔を覗かせていた。

「誰も見てないって」 
「だって」 「あそこの店はさあ、有名なのよ、
やりやすいって。みんなやってるんだから」 
「・・・」 
「じゃあ、明日またね」

リョーコはそう言うと駆け出して行った。
エリは、リョーコの言葉を心の中で繰り返していた。
「誰も見てない、誰も見てない」
その証拠に、店の人は追いかけても来なかった。

「誰も見てない、誰も見てない」
家に着くと、ますます恐ろしさが募っていった。 
でも、それを打ち消すように、何度も
心の中で呟いた。
「誰も見てない、誰も見てない」

そこへ、お婆ちゃんに呼ばれた。ドキリとした。
「え?」
何を言っているのか聞こえなかった。

「な、何、お婆ちゃん」 
「エリ、今日の昼ご飯は、デニーズに行こうかねぇ」 
「う、うん」 
「じゃあ、早く着替えておいで、玄関で待ってるわよ。
ちゃんと鏡も見ておいでよ」

制服から真っ白なTシャツと膝までのジーンズに
着替える。
心のモヤモヤは大きくなるばかりで、爆発しそうだ。

(どうしよ。お婆ちゃんに相談しようか。
でも、心配かけちゃダメだ)
「誰も見てない、誰も見てない」
と、まるで呪文のように繰り返す。

たしかに、誰も見ていない。 店員にも
気づかれなかったし、他にはお客さんも
いなかった。これからだって、黙っていれば
誰にもわからない。

「誰も見てない、誰も見てない」
ふと、姿見に映った自分の顔を見て驚いた。
真っ青な顔をしていた。 
それも少し黒ずんだような。エリはハッとした。

見ていた。
そうだ、見ている人がここにいた。 
誰も見ていなかったけれど、 私が見ていた。 
私の目が、私の心が見ていた。

「お婆ちゃん・・・」
エリは、蚊の鳴くような声で言った。
「どうしたの?何だか顔色がよくないね」 

「お婆ちゃん、デニーズに行く前にお願いがあるの」
勇気を振り絞って、すべてを話した。・・・ 



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2018年10月30日火曜日

妄想劇場・一考編


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350

 


過去に起きていることから浮かび上がってくる
真実もある。・・・


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近年、夫が妻を殺したり殺人未遂を犯したりする事件が
目立っている。8月28日、札幌で49歳の夫が23歳の妻を
車の中で殴り続けて殺した。

妻は妊娠8ヶ月だった。29日には福岡県で車内で
口論になって車から降りた妻(45歳)を執拗に轢いた
53歳の夫が殺人未遂で逮捕された。
妻は重傷だという。

さらに30日には沖縄県で52歳の夫が酔って、妻を
アパート3階の自宅から突き落として殺人未遂で
逮捕される。

3日連続であちこちでこういう重大事件が起こって
いるのを見ると、…いらいらしているのか、あるいは
日本の夫婦関係に何かとんでもないことが起こって
いるのかと考えさせられてしまう。

夫から妻へのDVは、殺人件数こそ100件前後で推移
しているが、暴行においては毎年、増加の一途を
たどっている。平成27年には検挙数だけで3500件を
超えた。(内閣府男女共同参画局サイトより)

逃げたほうがいいとわかっていながら逃げられない
つい最近も知人であるミナさん(48歳)が夫からの
DVで苦しんでいることを知った。

結婚して17年、ひとり息子は15歳になる。
50歳の夫は小さな会社を経営しているが、
このところ業績はあまりよくないらしい。
ただ、夫の暴力は今に始まったことではない……。

「最初の暴力は結婚してすぐでした。
彼に頼まれたことを私が忘れたことに腹を立てて
平手打ちが飛んできた。びっくりして泣き出すと、
彼は平謝り。それから子どもが生まれたあたりまでは
まったく暴力はなかったんです」

ところが子どもを育てている渦中では、
いろいろなことがあった。子どもが泣き出すと夫は
イライラしてモノに当たる。ドアをバシンと大きな
音を立てて開け閉めしたり、ときにはコップを
壁にぶつけたこともある。

「夜泣きする子どもを抱いて外に出て、うろうろ
していたこともありました」
子どもにばかり手をかけている妻にいらついたのか、
酔って帰って授乳している妻を無理やり
犯したこともある。
そのときばかりは情けなくて泣いたとミナさんは
つぶやく。

ミナさんも働いていたため、子どもが1歳に
なったころ保育園に預けた。夫の暴力が
またひどくなったのは、子どもが小学校に上がった
ころからだ。

野球が好きな夫は、子どもにグローブを買い与え、
休みの日にはよくキャッチボールをしていた。
帰ってきて一緒にお風呂に入ってくれればいいものを、
自分だけさっさと風呂に入る。

汗だくの子が次に風呂に入るのをミナさんが
手伝おうとすると夫が爆発する。
「ひとりで入れろ。ビール!」

冷たいビールが遅くなると平手打ちが飛んでくる。
子どもが入浴していて目の前にいないから、
ときには髪の毛を引っ張られて床に倒された
こともあった。

その後は暴力が日常的にそれでもまだ、
そのころは一息つくと夫は謝ったものだった。
「オレはおまえを本気で愛してる」というのが
夫の口癖だった。ただ、最近はもはや暴力が
日常的になっている。

何が彼の暴力スイッチを押すのか、ミナさんにも
わからない。
息子もすでに気づいているが、夫は息子の前で
暴力はふるわない。息子が部活でいないときなどに
夫は突然、暴れ始める。

「私も働いているので顔はやめてと言っているのに、
スイッチが入ると彼自身、自分が何をしているのか
わからなくなるみたい」

階段から落ちて肩を脱臼したこともあるし、
前歯は何度折ったことか。彼女自身、これが
暴行だとわかっているし刑事事件にもなると
知っている。それでも彼女は逃げようと
しないのだ。

以前、取材したことのある女性は夫によって家に
軟禁状態だった。逃げる意欲があっても
逃げられなかった。だがミナさんは会社員である。

助けを求めようと思えばいくらでも場はある。
息子とふたりで逃げ出すことはできるはずだ。
あるいは暴行を受け続けて、逃げる意欲を
失っているのだろうか。

「逃げたほうがいいのはわかってる。
でも息子から父親を奪う決意がつかないんです。
あの人を支えられるのは私だけだとも思う。
私ががんばれば、夫はいずれ自分が何を
してきたかきっと気づいてくれるはずなんです」

自分を傷つける夫をそこまでかばう理由が
わからない。共依存になっているのかもしれない。

夫婦のことは夫婦にしかわからないという。
だが、これだけは言える。DVを我慢するのは
子どものためにもよくない。

子どもの心は傷つき、蝕まれていく。
そして暴力は体だけではなく、ミナさんの心の
奥深くまで傷つけるのだ。

暴力があったらすぐに逃げるべきだ。
警察や地域の女性センター、福祉事務所など
相談窓口はたくさんある。
配偶者の暴力を容認して幸せになった
人などいない。・・・



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「チッ!困ったものだな~。また、トイレかよ」

井口豊は、コンビニのオーナー店長だ。 以前は、
機械部品を製造販売する会社で、営業課長を
務めていた。
しかし、豊には学生時代からの夢があった。 
独立することだった。どんなに小さな店でもいい。

「一国一城の主になりたい」そう思って、コツコツと
独立資金を貯めてきた。 結婚するときにも、
彼女に自分の夢を語った。反対されるかな、
と少し心配だった。それを口にしたとたん、
婚約を破棄されるんじゃないかと。

でも、それは杞憂だった。
それどころか、「いいわねぇ」と賛成してくれた。 
そして、結婚。子供が早くできたこともあり、
なかなか貯金は貯まらなかった。

それでも、いつか、いつか・・・」と夢を育んできた。 
それが叶って、三十七歳のとき晴れて大手の
フランチャイズに加盟し、 コンビニを開業する
ことができた。オープンとともに売上は順調だった。

何より大きかったのは立地である。 
大学の正門前のつぶれた書店の後に出店したのだ。
何より、豊が苦労したのは、アルバイトの確保である。 
いつの世も「最近の若い者は」と口にするが、
これが豊の口癖だった。

なかなか定着しないのだ。せっかく目の前の
大学の学生を雇っても、 すぐに辞めてしまう。
仕方なく、最近では、年配の人を雇っている。

「チッ!困ったものだな~。また、トイレかよ」

3ヶ月ほど前、アルバイトに63歳のオバサンを
採用した。 本当は雇いたくなかった。
オバサンは動きが遅い。 それに時代に対する
感覚が鈍い。

常に、流行の最先端を追い求めるコンビニ商品に
付いて行けないと思っている。 しかし、背に腹は
代えられない。 オープン以来、働いてくれていた
女の子が海外に留学してしまったのだ。

「浅野さ~ん、早く早く!こっちのレジも開けてよ!
お客さん並んでるよ~」 「はいはい、
今行きますよぉ~」

「浅野さん」と呼ばれたオバサンは、 トイレから
出てくると小走りにレジへ向かった。 
両手をハンカチで拭きつつ。

豊は顔をしかめた。 わかってはいる。
承知しているつもりだ。 人は歳を取ると、
小便が近くなる。

豊の田舎の両親も、夜中に交互にトイレに行く。 
しかしだ。それにしても、浅野千代子の場合は
回数が多過ぎはしないか。

わざわざ数えているわけではないが、1時間に
一回はトイレで行っている気がする。

「は~い、お待たせしましたねぇ。
並んでいるお客様~、こちらのレジに
お回りくださいね!」

たしかに、接客態度はいい。少々下町風で、 
その馴れ馴れしさを嫌がるお客さんも
いることは事実だ。
でも、「最近の若い者」のように、あいさつ一つ
できないのと比べたら有難いと思うべきだった。

(さすがに「トイレに行くな」とはオバサンに
向かって言えないしなあ)
豊はグッと言葉を飲み込んでレジを打った。

「はいはい、このプリン美味しかったわぁ~。
私も昨日食べたばかり」 
「よかった。迷ったけど楽しみ!」

たしかに、あのフレンドリーな感じは、
おおむねプラスだ。
(プラスマイナス、ゼロってところかな)

豊は、浅野のオバサンが、何度もレジを離れて
トイレに行くことに、 しばらく目をつむって様子を
みることにした。

オバサンを雇った翌月くらいから売り上げが
伸びているのだ。 売上と浅野のオバサンには
何の関係もないが、・・・

「何度トイレに行ったら気が済むんだ!」 
と言いそうになるのを思い留めるには十分な
理由だった。
(売上が上がっているんだ、今は我慢しよう・・・
疫病神とは言えないし)

その翌日のことだった。

小さな小さな事件が起きた。万引きが発生したのだ。 
近くの中学生が、マンガ雑誌をスポーツバッグの中に
忍ばせて店を出た。

たまたま、駐車場のそうじをしていた豊がガラス越しに
不審な様子を認め、 少年が外へ出たところを
問いただしたのだった。

店の中へと連れ戻す。そこへ浅野千代子がトイレから
出てきた。 豊の心の中で、プチンッと何かが
切れる音がした。

「浅野さん! 前から言ってるだろ! 
お客さんが少ないときでも、 あんたがレジから
売り場を見渡してるようにって!」

浅野のオバサンは、事態を察したようだった。
「あらあら、ボクどうしちゃったの?」 
「・・・」少年は下を向いている。

「いいですよ、この子のことは! 
上の事務所に連れて行って、親御さんに連絡するから、
レジをちゃんとお願いしますよ!  

それからいいですか! そうそう何度もトイレに
行かないでよ。少しくらい我慢できるでしょ!」
そう言ってから、豊は少し後悔した。

しかし、「はいはい、わかりました。  
ボク、ちゃんと店長さんに謝りなさいよ」
と笑顔で言うのを見て、ガックリした。

万引き事件が片付いて、ホッとしていたところへ
バイクの集団が 駐車場へ入って来た。6台。 
中には、大型のハーレイも。
全員が黒いツナギを着ている。

ちょっと見は暴走族風だ。ガラの悪いお客様は
歓迎したくないが、 見てくれで人を判断する
わけにはいかない。

店に入ってくるなり、リーダーらしき大柄の男が、
他のメンバーに言った。

「ここのトイレはよお~、いつもキレイだから
気に入ってるんだ。  
ちょっと家からは離れてるけど、ついついここへ
来ちゃうんだよな」 
「リョウさんはオシッコが近いからね」
と、髪の毛を真っ赤に染めている男が言った。

「バカヤロー」 
「へへヘ・・・。オレ、買い物してますから、
ゆっくり行っててください」

そこへ、浅野のオバサンがトイレから出てきた。
「おう、オバチャン、いつもトイレ掃除ご苦労さん!」 
「今、キレイにしたばかりだからね、外に
こぼしちゃダメよ!」 「わかってるよ」

豊は、二人の会話を聞いてハッとした。
(まさか・・・。毎時間のようにトイレに行っていたのは
・・・掃除をするため)

そのすぐ後、セールスマンと思われる若い
男性二人が、車を止めて入って来た。 
そして、先輩と思しき年上の方が言った。

「このコンビニはさあ、いつもトイレがキレイだから、  
ついつい来ちゃうんだね。覚えとくといいよ」

豊かは、しげしげとオバサンの顔を見た。 
その笑顔が、急に福の神に見えた。



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2018年10月29日月曜日

妄想劇場・特別編

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人生は道路のようなものだ。 
一番の近道は、 たいてい一番悪い道だ。 
・・・ フランシス・ベーコン



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「尊厳死宣言」が8か月で1000件超、急増の背景は 

「生命を維持するために、点滴で栄養や水分を
送り続けると、体がだぶだぶの状態になるんです。
お医者さんの中には、『溺れる』と表現する人も
いるそうです。

たしかに父の命はつなぎ止めましたが、
果たして最善の選択だったのか……。
答えは見つかりません」

そう話す50代のAさんは、昨年、父親をがんで
亡くした。病床で何本も管につながれた父の
最期の姿が、今も脳裏から消えないという。

病気や事故で回復の見込みがなくなった場合、
無理に延命治療を施さず、自然な最期を
迎えるのが「尊厳死」だ。

文字通り、人間としての尊厳を保ったまま
旅立たせるという考え方だ。

「尊厳死の基本は“望まない医療を受けない
権利を守る”ことにあります」
日本尊厳死協会関東甲信越支部理事で
杉浦医院院長の杉浦敏之氏は、そう話す。

どんな最期を迎えたいかは、それぞれの
人生観によって異なる。
最後まで病魔と闘い抜く考えの人もいれば、
経管栄養と人工呼吸器をつないで生き続ける
ことに抵抗感を示す人もいる。

2025年には65歳以上の人口が全体の3割に達する
といわれる。超高齢時代に、人生をどう
締めくくるかは現代人にとって大きなテーマだ。

そんな中、日本公証人連合会が、ある調査結果を
発表した。今年1~7月に、公証役場で作成された
『尊厳死宣言公正証書』(以下、尊厳死宣言)の数が、
983件にのぼったという。

尊厳死宣言の文例は?

公正証書とは、法務大臣に任命された公証人が
作成する文書のことだ。金銭貸借を含む
各種契約や、遺言などの内容を公証人が証明する
ことにより、法的な紛争を未然に防ぐことを
目的としている。

そこで作成される尊厳死宣言には一体どんな
役割があるのか。優オフィスグループ代表で、
行政書士の東優氏が解説する。

「尊厳死宣言は、終末期に延命治療を望まない
意思を、公証人の前で宣言する文書です。
法的な拘束力はありませんが、家族や医療機関
などに対して自分の意思を表明できるものです」

これまでも、一般財団法人である日本尊厳死協会が
延命治療を望まないことを表明する「終末期医療に
おける事前指示書(リビング・ウイル)」の
普及活動を続けてきた。

エンディングノートをはじめ、自分の人生の
終わり方を考え、文書として残そうとする風潮も
広がりつつある。

だが、そういった文書は、あくまで“私的”なもの。
“公的”な意味合いのある尊厳死宣言に
まとめることで、よりはっきりと周囲に意思を
伝えることができるという。

東京都にある公証役場がホームページに
公開している
オーソドックスな尊厳死宣言の文例には、

「延命治療を行なわないこと」
「苦痛を和らげる措置は最大限行なうこと」
「医療従事者の免責」
「自身の精神状態の健全性」
といった項目が綴られている。

日本公証人連合会の向井壯氏が解説する。
「確認したところ、古くは1993年に尊厳死宣言が
作成された記録がありました。

尊厳死という言葉の広まりとともに相談件数
および作成数が増えています。
それで今年、初めて統計を取りました。
データ発表の翌月となる今年8月には145件
作成されており、合わせて1000件を超えました。  

家族に迷惑をかけたくない、という考えの人が
多いと思います。実際に身内の方を看取って、
自身の最期をイメージした時に尊厳死という
結論に至ることも多いようです」・・・




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毎年、冬になると思い出す話です。

私たちの地域では、暖房器具用の灯油を、
毎週、タンク車で配達に来てくれます。
玄関先にポリタンクを置いておくと、
灯油を入れておいてくれるのです。

我が家では、毎週の配達日に家人が留守を
しているため、代金を封筒の中に入れて空の
ポリタンクと一緒に置いておくように
していました。

直接、灯油販売のおじさんと会わなくても、
灯油がもらえるようにしてあったのです。
そんなやりとりが数年間も続いていました。
ある年の冬のことです。

偶然に、灯油の値段が上がっていたことを
知りました。
それも、ずいぶん以前かららしいのです。
ざっと見積もっても、累計で数千円が
不足していました。

そこで、代金を入れた封筒の中に、
「金額が変更していたことを知らずすみません。
不足分の代金をお支払いしたいので
教えてください」と一筆書いて入れておきました。

その日の夕方のことです。
家人が帰宅して封筒の中を見ると、 こんな
メモが入っていました。
「ずっとお世話になっていますから、これまでの
分は結構です。」と。

狭い住宅道路で灯油販売のおじさんのタンク車と
自転車ですれ違ったときに、
「どーぞ、どーぞ、すみません」と優しく言って、
車をバックさせてくれたおじさんの顔が
目に浮かびました。

寒い冬に、灯油が心の中まで暖めてくれました。

江戸時代から続くデパートの大丸には、
こんな家訓があるといいます。
「先義而後利者栄」
正義を優先し、利益を後回しにする者は栄える、
という意味です。

また松坂屋には、
「人の利するところにおいて我も利する」
つまり、相手に得をさせてこそ、自分も
利益を得られる、という意味の言葉が
残されています。

そのほか、近江商人の有名な「三方よし」
という商いの考え方があります。
「売り手よし 買い手よし 世間よし」。
売買の二者だけでなく、世間つまり社会貢献まで
すでに考えていたのです。

これらのように、自分の利益だけ考えて商売を
するのではないという考え方、
つまりギブアンドギブの精神こそが、
江戸時代から現代までも企業を存続させた
原動力だったわけです。

灯油のおじんさんのお話は、
エゴが罷り通る世知辛い世の中だからこそ、
心に染みるものですね。

萩本欽一さんの編著「欽言力 」に
「何かをするとき、見返りを求めちゃいけない」 

欽ちゃんが小学生のとき、 
学校の帰りに八百屋さんの大八車を押して
あげたら、別れ際に、「坊主、ありがとな」 
とりんごをくれたそうです。

「いいことをした」と思って母親にそのことを
得意げに話したら、 
「欽一、人さまからものをもらったら、 
親切にはならないのよ。 

そういうときは、きちっとお断りしなさい。 
りんごをもらわないで押せば、もっといい子
だったのに」と言われたというのです。

欽ちゃんの家は、家財道具を差し押さえられるくらい
貧乏だったそうです。 
それなのに、素晴らしいお母さんですね。

さらに、こんな話も。 
欽ちゃんが3人の友だちと映画を見に行ったとき、
お金もないくせに全員の入場料を払ったことが
あるそうです。

みんなが「萩本は貧乏」と知っています。 
そのうちの一人が後に 「萩本がバイトしたお金で
映画を見るのは申し訳ないと思ったけど、 
ぐっと堪えたんだ。
そうじゃないと、貧乏人扱いすることになるから」 と。

そいつは、いい奴でときどき自分の家に
連れて行って飯まで食べさせてくれたそうです。 

「俺さ、お前が貧乏だから食わせてるんじゃないぞ。 
うちのお袋は料理が好きだから、友だちにも
食わしてやりたいと思って呼んだの。 
だから負担に思うなよ」 と言って。

この二つのエピソードには、共通点があります。 
その根底にあるのは、「ギブアンドギブ」の精神です。 
与えて与えて、見返りを期待しない心を養うこと。 
・・・



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2018年10月28日日曜日

妄想劇場・特別編


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みんな、私の着ているものを見て笑ったわ。 
でもそれが私の成功の鍵。 
みんなと同じ格好をしなかったからよ。 
・・・(ココ・シャネル ) 



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戦後最大、二兆三千億円の負債を抱えて2010年に
倒産したJAL 。
事業会社としては、倒産後京セラ名誉会長の
稲盛さんが会長として再建に携わり、
JALの会長に就任すると、僅か2年8か月で
再上場へと導きました。

不可能と言われたJALを復活させたその手腕とは? 

当時、経営危機に陥ったJALは、その再建計画を
巡って連日喧しく報道がなされ、誰も引き受け手が
ないまま、為すすべもなく日々だけが経過していた。

そんな中、最初は「何を言われても受ける気はない」と、
会長就任依頼を固辞されていた稲盛和夫さん
(当時78歳)が、いよいよ倒産間近となった段階で、
遂に受諾の決心をされた。

ただ、その勇気ある決断に対するマスコミの論調は、

「航空業界について何も知らない人間に何ができる?」
「高齢で経営者としてのピークをとっくに過ぎている」
「二次破綻必至」「再建は絶対不可能」
といったものばかり。

好意的な人でも「晩節を汚すことになるのではないか」
と心配し、反対の声が多数だったと記憶している。
さすがの稲盛さんでも今回だけは難しいのではないか
……と、正直、あの時、一体どれだけの人が再建を
心から信じることができていただろう。・・・

さらにその時、驚いたことは、稲盛さんがJALに
連れて行った京セラの社員が、たった二人だけ
だったことである。

これから大改革をするに当たり、当然、腹心の部下を
こぞって引き連れ、京セラフィロソフィや経営の仕組みを、
JAL社員に伝えていかれるものだとばかり思っていた。

ところが選ばれたのは、たったの二人。
そのうちの一人が、稲盛さんの秘書を長年
務めてこられた大田嘉仁さんである。

『JALの奇跡』致知出版社:大田嘉仁 
JAL再建の一部始終が克明に記されています。

・当時のJALの様子、社員の反応
・具体的に何を行ったのか、何から始めたのか
・稲盛さんが社員に訴えかけたこと
・成功の一番のポイントは何だったのか
・その法則は他の業界にも当てはまるのか

そしてそこに綴られた文章は、時に稲盛さん
ご自身が語られるよりも迫力を持つことさえあった。

同社の再建に貢献した稲盛氏の側近中の側近は、
「あること」を社員たちに丁寧に、そして入念に
浸透させていったといいます。

リーダーとマネージャーの違いを説明できますか? 

企業経営をする上で最も大事なことは、経営幹部に
立派な人間性をもつすばらしいリーダーを
据えることである。どんな困難に直面しても逃げずに
真正面から取り組む勇気があって、また部下や
仲間を大切にする優しさをもっている。

さらに常に謙虚で努力を怠らない。
そういうリーダーでなければ小さな部門さえ
まとめることはできない。

JALに着任し、会議に出席し、現場を訪問する中で、
JALには本当のリーダーと呼べる人間がいないことを
痛感していた。それではいくら立派な再建計画を
作っても、達成できるはずはない。

外部からのコンサルティングなどは一切なく、
あくまで内部の改革で成し遂げた奇跡の秘密は、 
「ハードではなく人の意識を変える」ということ。 
武器として持っていたのは「フィロソフィ」
と「アメーバ経営」 

人として何が正しいか」という考え方や熱意
=フィロソフィと、アメーバ経営という
経営システムの2つをベースとして再建しました。 

アメーバ経営とは、全員参加経営を実現するための
会計システムです。
組織をできるだけ小さく分け、運営を各部門の
リーダーに任せ、その経営数字をオープンに
リアルタイムに把握します。

部門ごとに採算表をまとめることで、どの部署が
黒字だったのか、どういった経費を使ったのかが
すべて把握でき、京セラ成長の原動力になった
システムといわれています。 

5名の意識改革準備室を開設、
土曜日を含めて1か月に16回のリーダー教育を断行。 
強引ともいえるスケジュールを進め、終了後には
必ず意見交換会(コンパ)を行うという徹底ぶりで、
幹部間の一体意識を高めました。 

今JALに必要なのは部下をまとめて同じ目標に
向けて引っ張っていけるリーダーを育てること。

優秀なマネージャーであれば、困難に遭遇すれば
その迂回策を考えるだろう。
うまくいかなかったら、その言い訳を探して、
責任逃れをするだろう。

そんなマネージャーばかりだから倒産したんだ。
再建を成功させるには、どんな困難に
ぶち当たってもあきらめずにやり遂げようとする、

一つの目標に向かって部下を鼓舞して
なんとかまとめていこうと考える、そんなリーダーが
必要なんだ。リーダー教育の必要性をどうにか
理解してもらった。 

「お前は何を基準に人を見るのだ」と稲盛さんに
聞かれた際、大田嘉仁さんは 「JALが一番好きで、
まじめで一生懸命で、しかも明るい人が
リーダーに相応しいと思っています」と
答えています。 

上の立場の人間の意識が変わらないと、
部下の意識が変わるはずもない。
逆に、幹部の考え方が変われば、自ずと
部下の考え方も変わる。だから、どうしても
リーダー教育を早急に始めなければならない
と思っていた。

追記・・・

その日、僕は羽田空港へと急いでいた。
保安検査場に着いたのは、朝7時30分。
フライトは7時40分。
出発まであと10分しかない。

すると僕の慌てた様子に気付いた
JALの若いCAの方が、
「何分発ですか?

えっ?! 
それはもう間に合わないかもしれません……。
でもすぐ連絡を取ってみます!」とスタッフに
電話をし、なにやら事情を説明してくださっている。

そして、まだなんとか間に合いそうなことが分かると、
「私がゲートまでご案内します」と僕のすこし前に出て、
駆け足で先導してくださったのである。

朝早くから空港内を懸命に走りながら
案内してくださるCAの方に、心から申し訳ない
と思うと同時に、そのひたむきな姿に心を打たれた。

さらにその方は移動中にも連絡を取って、
「まだお並びの方が10名ほどおられるようですので
大丈夫です」と僕を安心させるとともに、
余計な気を遣わせないよう心を砕いてくださった。

そして無事ゲートを通過するまでを見届け、
「お急ぎ立てしてしまい、申し訳ございませんでした。
どうぞお気をつけて行ってらっしゃいませ」
と深々とお辞儀をされている姿に、
「さすがJAL……」との思いを
新たにしたことだった。


『JALの奇跡』致知出版社:大田嘉仁 
JALの再建劇は、日本のみならず、 
世界の産業史にも残るほどの稀有な
出来事である。 

『論語』を著したのは、孔子本人ではなく、
孔子の門人たちだったように、その人物の
真の偉大さは、最も身近にいた人によって、
よりリアルに伝えられるものなのかもしれない。
・・・



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平野恵子さんは、三人の子どもに恵まれた
お寺の坊守であった。
彼女が三十九歳の冬、お寺で新年を迎える準備を
していたとき、下腹部の激痛におそわれ、
多量に下血した。

彼女はただならぬ重い病気であることをさとった。
あふれでる涙のなか彼女はこう思った。・・・

「この目の前の現実は、夢でもなく、幻でもない。
間違いのない現実なのだから、決して逃げる
訳にはゆかない。

きちんと見据えて対処してゆかなければ・・・」
彼女は癌の告知を受けた後、三人の子どもたちへ、
母親としてあげられることは一体何だろうと考えた。
彼女は、死を前にした自分の願いを、こう記している。

「お母さんの病気が、やがて訪れるだろう死が、
あなた達の心に与える悲しみ、苦しみの深さを思う時、
申し訳なくて、つらくて、ただ涙があふれます。
でも、事実は、どうしようもないのです。

こんな病気のお母さんが、あなた達にしてあげれること、
それは、死の瞬間まで、「お母さん」でいることです。

元気でいられる間は、御飯を作り、洗濯をして、
できるだけ普通の母親でいること、徐々に動けなくなったら、
素直に動けないからと頼むこと、そして、苦しい時は、
ありのままに苦しむこと、それがお母さんにできる
精一杯のことなのです。

そして、死は、多分、それがお母さんからあなた達への
最後の贈り物になるはずです。
人生には、無駄なことは、何ひとつありません。
お母さんの病気も、死も、あなた達にとって、何一つ
無駄なこと、損なこととはならないはずです。

大きな悲しみ、苦しみの中には、必ずそれと
同じくらいのいや、それ以上に大きな喜びと幸福が、
隠されているものなのです。

子どもたちよ、どうかそのことを忘れないでください。
たとえ、その時は、抱えきれないほどの悲しみであっても、
いつか、それが人生の喜びに変わる時が、きっと訪れます。

深い悲しみ、苦しみを通してのみ、見えてくる世界が
あることを忘れないでください。
そして、悲しみ自分を、苦しむ自分を、そっくりそのまま
支えていてくださる大地のあることに気付いて下さい。

それがお母さんの心からの願いなのですから。
お母さんの子どもに生まれてくれて、ありがとう。
本当に本当に、ありがとう。」

さらに、彼女は、死の前で、子どもたちに次のような
手紙を送っている。

「お母さんは“無量寿”の世界より生まれ、“無量寿”の
世界へと帰ってゆくものであります。
何故なら“無量寿”の世界とは、すべての生きとし
生けるもの達の“いのちの故郷”そして、お母さんに
とっても唯一の帰るべき故郷だからです。

お母さんはいつも思います。
与えられた“平野恵子”という生を尽くし終えた時、
お母さんは嬉々として、“いのちの故郷”へ
帰ってゆくだろうと。

そして、空気となって空へ舞い、風となってあなた達と
共に野を駆け巡るのだろうと。
緑の草木となってあなた達を慰め、美しい花となって
あなた達を喜ばせます。

また、水となって川を走り、大洋の波となってあなた達と
戯れるのです。
時には魚となり、時には鳥となり、時には雨となり、
時には、雪となるでしょう。

“無量寿=いのち”とは、すなわち限りない願いの
世界なのです。そして、すべての生きものは、その深い“
いのちのねがい”に支えられてのみ生きてゆけるのです。

だからお母さんも、今まで以上にあなた達の近くに
寄り添っているといえるのです。 悲しい時、辛い時、
嬉しい時、いつでも耳を澄ましてください。
お母さんの声が聞こえるはずです。

『生きていてください、生きていてください』という
お母さんの願いの声が、励ましが、あなた達の
心の底に届くはずです。」

彼女の子どもへの愛情は、この世限りのものでなく、
死をも超えてつながる真の愛情であると信じて疑わない。
その浄土は、生きとし生けるものの故郷であり、
無量寿の世界であると彼女は受けとめている。・・・



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