2018年10月21日日曜日

妄想劇場・歌物語



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貴方はもう忘れたかしら 
赤い手ぬぐいマフラーにして 
二人で行った横丁の風呂屋 
一緒に出ようねって言ったのに 
いつも私が待たされた 

洗い髪が芯まで冷えて 小さな石けんカタカタ鳴った 
貴方は私の身体を抱いて 冷たいねって言ったのよ 

1970年代初頭の日本では、安保闘争・学生運動の
熱が少しずつ冷めてゆく中、一部の若者たちの間で
得も言われぬ敗北感と挫折感が漂い
始めていたという。 

そんな時代に、この「神田川」は生まれた。 
南こうせつ、伊勢正三、山田パンダからなる
フォークグループかぐや姫が1973年に
発表したもので、45年経った今でも
;昭和の代表曲;として愛され続けている
名曲の一つである。 

当初はアルバムの一曲として収録されていた
歌だったがラジオで大反響を呼び、急遽、
シングルカットされて160万枚を売り上げる
大ヒットを記録した。 

楽曲のクレジットには作曲:南こうせつ、
作詞:喜多條忠(きたじょうまこと)と記されている。 
歌詞を書いた喜多條と言えば、1960年代の
終り頃に浅川マキと出会ったことをきっかけに、
劇団・天井桟敷を旗揚げしたばかりの
寺山修司などとも親交のあった作詞家で、
第一期、がくや姫のシングルのB面曲
「マキシーのために」で作詞を担当した
人物でもある。 

1970年のデビュー以来、ヒット曲にめぐまれなかった
南は、かぐや姫の3rdアルバムを製作するにあたって
文化放送で放送作家をしていた喜多條に
作詞の依頼をした。 

あるインタビューで、喜多條は当時のことを
こう語っている。 「
締め切りは今日なんですけどねって平気な顔して
言うんです。」 急な依頼に何も浮かばなかったという。 

その日の帰宅途中に彼は神田川沿いを
歩きながら;ふと数年前のことを思い出す。 

彼女とアパートで同棲していた学生時代。 
大学の近くにあった三畳一間の小さなアパート。 
窓の下には神田川が流れていた。 

60年代、キャンパスには学園紛争の熱が
渦巻いていた。 
「あの暮らしは一体何だったのか喜多條は、
依頼された歌詞にその思い出を書こうと決意した。 

大学時代には頻繁にデモ運動にも参加していた。 
ある日、疲れ果ててから帰るとカレーライスを
作っている彼女の後ろ姿を見る。 

コトコトと包丁で刻む、ささやかな幸せの音。 
貧しくとも、かけがえのない時間。 
このまま彼女と結婚して、社会人として安穏に
人生を生きてゆく。 

「俺はそれでいいのか?彼女の優しさ、そして
平凡な暮らしの中に埋もれていく自分
そういうのが怖かった。」 

書き終えた歌詞の最後に「ただ貴方の
やさしさが怖かった」と書き加えた。 

彼女の目線(言葉)で綴られていた歌詞は、
その一行だけ喜多條の思いとすり替わる。 
当時学生下宿が多かった早稲田界隈が
舞台となったこの歌。 

喜多條はある寄稿文に、歌詞に登場する下宿や
風呂屋の場所を具体的に綴っている。 
「下宿は明治通りの戸塚警察署の向かい側を
神田川沿いに入って、戸田平橋と源水橋の間、
高田馬場2丁目11番地あたりです。

銭湯は西早稲田3丁目、現在の甘泉園近くの
路地から少し入った場所にあった安兵衛湯。
現在はもう廃業してるらしいです。」 

歌詞を書き上げた喜多條は、すぐに南に電話をして
音読しながら伝えたという。 
南もまた、その日のことを鮮明に憶えていた。

「小さな石けんカタカタ鳴ったと書き止めながら、
最初はなんて変な歌詞なんだろうと思いました(笑)」 
若かったあの頃 何も怖くなかった ただ貴方の
やさしさが怖かった 

受話器から聞こえてくる言葉(歌詞)をメモしながら
南の頭にはすでにメロディーが浮かんでいたという。 

参考文献『歌がつむぐ日本の地図』帝国書院

貴方はもう捨てたのかしら 二十四色のクレパス買って 
貴方が書いた私の似顔絵 巧く書いてねって
言ったのにいつもちっとも似てないの 

窓の下には神田川 三畳一間の小さな下宿 
貴方は私の指先見つめ 悲しいかいって聞いたのよ 
若かったあの頃 何も怖くなかった ただ貴方の
やさしさが怖かった "・・・


 



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その生い立ちが感性を研いだ 吉永みち子の
深いふところ 

人間に朝日派と夕陽派があるとしたら、自分は
夕陽派だ、と吉永みち子は言う。
夕陽をぼんやり眺めているのが好きなのである。
朝日はまぶしくて、ぼんやりなんか眺めて
いられないとか。・・・

テレビでコメントしたり、卓抜なエッセイを書いている
吉永は『気がつけば騎手の女房』(集英社文庫)で
大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した。

彼女は野間惟道が社長をしていた『日刊ゲンダイ」で
競馬記者をしていたことがあるが、あるとき、
夜遅くまでみんな必死になって原稿を書いている中で、
ひとり、ぷかっと煙草をふかしている男がいた。

まだ20代で元気のよかった吉永は「ちょっと
あんた邪魔よ。何にもなかったら帰ってよ、
目障りだから」と声をかけた。

吉永は顔を知らなかったのだが、それが社長の
野間だった。
しかし、そう言われて野間は怒りもせず
「それもそうだな」と腰を上げた。

すぐにデスクがとんできて、吉永は、その男が
社長であることを知る。
「しまった、これでクビだな」と思っていたら、
逆に、それ以後かわいがられて、家に
呼ばれたりした。

小生意気な女の子が競馬に目ざめ騎手の女房に

『気がつけば騎手の女房』は東京外国語大学在学中に、
突然、競馬に目ざめ、競馬記者になった吉永が、なんと、
伝説的騎手の吉永正人の女房になってしまうまでの、
ドラマを地で行くドキュメントだが、

女性の就職物語であり、恋愛物語であり、結婚物語
でもあるこのドラマは、「学生ホールで初めて
ダービーを見る」に始まり、「下宿屋の娘、
通訳に憧れる」という回想に移る。

父親が60歳の時に生まれた吉永は、9歳でその父を
亡くし、母親と2人で下宿屋をやっていた。

この小学生は「今思うと吹き出してしまうほど
小生意気」で、下宿人がいろいろ無理を言うと、
とびだしていって「ちょっとあんた、女子供だと思って
なめんじゃないよ。

上等じゃないの。そんなに自分の都合ばかり
並べるなら、明日から外食にしてもらおうじゃない。
お母ちゃん、1人分減らしな」と、ベランメエ口調で
まくしたてた。

ついには、妻を亡くした3人の子持ちの騎手と結婚 

この娘は(旧姓は鈴木)成長して、次々と母親の
期待を裏切り、ついには、妻を亡くした3人の
子持ちの騎手(吉永正人)と結婚したのである。

「娘をたぶらかしたあの男を、私は鉈で頭を
叩き割ってやりたいほど憎い」こう言って
怒る母親を、吉永正人は1人で訪ね、
黙ってその前に、競馬で馬を追うときに使う
鞭を差しだした。

そんな一幕もあっ・・・て2人は結婚したのだが、
その吉永みち子と私は1993年秋に
『男の魅力女の引力』という対話集を出した。
共に40代のころである。

その時、彼女は多くの人に驚かれたらしい。
「どういうお知り合いなんですか?」と訝しげに
尋ねられたとか。

実は講談社の編集者に紹介されたのだが、
吉永は『佐高信の男たちのうた』の解説で、
その折りの心象風景をこう書いている。

「カタギさんから見ればウラの世界とされていた
頃の競馬に縋って生きてきたような人間は、
きっとバッサリと切って捨てられるに違いないと
身構えつつ、開き直って出かけていったのだった。

しかし、会った瞬間に脅えも緊張もすっかり忘れた。
うっかり忘れたのではなく、そんな構えを
必要としない人だと察することができたから
忘れられたのである。

初めての人と出会った時、どんなやさしさで
接してくれようとも、私は人の目の中に一瞬宿る
憐みや優越感や嫌悪感に、きわめて敏感に
反応してしまうのである。

けっして世間並みとはいえない家庭に生まれ、
若い頃に博打場のようだった競馬場に出入り
したために、ずいぶんと白い目で見られた経験の
後遺症かもしれない。

その時、佐高さんに対して私のセンサーは
微動だにしなかった。
構えが取れると自然になり、自然になると本音が
さらけだせ、それでいて妙にウマがあった。

辛口、硬派、生真面目、大胆不敵と世に
言われているが、辛いばかりの人ではない。
厳しいばかりの人でもない。

清流だと窒息死してしまいかねない雑魚の私が、
楽に呼吸できるほどの濁りも持ち合わせて
いるらしい。そんな気がしたのが第一印象だった」

吉永の人間判別法のシャープさとディープさ 

「切る時も誉める時も激しい」佐高の本の中で、
これは「少しばかり趣を異にした作品」だとして、
吉永はこう続ける。

「血刀を握りしめ仁王立ちして権力に異議を
唱える時の攻撃性は影をひそめ、自らの琴線に
共鳴してくる男たちのうたに、じっと耳を傾けている
かのような穏やかな風情がある。

ここに登場する男たちは、みんなしたたかに強く、
潔く、成功もし、有形無形のものを世の中に
残している。

しかし、それと同じくらいに、弱さを持ち、
板挟みに悩み、失敗も重ね、失ったものの痛みを
抱えている。
ひとひねりも、ふたひねりも屈折している」

吉永の語った「屏風の思想」というのも忘れられない。
屏風は真っすぐにしたら立たない。
曲がってようやく立つ。これもまた1つの立ち方
だと思うと彼女は言ったのである。

漫画家の石坂啓、人材育成コンサルタントの
辛淑玉、そして市民派政治家の辻元清美と会食を
することになって、吉永に同席を頼んだ。

男1人では、とても若手猛女に太刀打ちできない
と思ったからである。
正解だった。ほぼ初対面だった3人から、
直きに彼女は“姐さん”と一目置かれていた。
ちなみに彼女の歌う「緋牡丹お竜」は絶品である。

私は決して吉永の過褒が当てはまる男ではないが、
どうしても彼女の書いた解説の結びを引きたい。

「私は、佐高さんの痛みの限界が心配になる。
安全圏に身を置いて吠えているのではなく、
敵陣深く入り込んで切りまくっているのである。

当然ながら自らも切られる。
佐高さんは、切られれば人一倍痛みを感じる
人である。
けっして切られる痛みを感じないまま、
人を切りまくっているわけではないのである。

切られた相手はひとつの傷に耐えればいいが、
切りまくる佐高さんは満身創痍である。
友人のひとりとして、それは辛い眺めなのだが、
手加減をしたらとはさらに言えない」

そして、「自らの闘いを闘ってほしい。
やはり、私もそう願うしかないのだろう」
と、この檄文は結ばれている。 ・・・



運がいい人も、運が悪い人もいない。
運がいいと思う人と、運が悪いと思う人が
いるだけだ。・・・(中谷彰宏) 



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